Masuk久世が用意した一覧表は、長机の端から端まで届きそうな長さになっていた。最初に見つかった十数億円の連帯保証契約だけでも十分に異常だったはずなのに、その翌日から照会先が増えるたび、美琴の名前が別の書類から現れた。銀行、リース会社、医療機器メーカー、病院法人、建設会社。契約の種類も金額も違うが、保証人欄に記されているのは同じ名だった。「三十八件です」久世は感情を交えずに言った。机の上には現在も有効な契約、すでに完済された契約、失効した保証、更新のたびに条件が変わった契約が色分けされている。すべてを単純に合算することはできない。それでも、元本だけを積み上げれば数十億円に達していた。美琴は一覧表へ指を置いたまま、すぐには返事をしなかった。数字が大きすぎて驚けないのではない。むしろ一件一件の金額より、契約日が二十二年間へ広く散っていることの方が気になった。十八歳で榊原家へ嫁いだ直後から、四十歳になる現在まで途切れていない。最近になって突然作られた仕組みではなかった。「全部、私が保証したことになっているんですね」「書面上はそうです。しかも単なる専務夫人ではなく、榊原医療開発と関連会社の資金調達へ継続的に関与した人物として見えます」「共同経営者のように?」「そう評価される危険があります」久世は一冊のファイルを開いた。ある銀行の融資稟議には、美琴について〈創業家に準ずる重要関係者〉〈個人資産を背景とした保証能力あり〉と記載されている。別のリース会社では〈桐生家資産の承継予定者〉という一文まであった。美琴自身は当時、父の信託の存在すら知らなかったのに、貸す側にはその情報が伝わっていた。胸の奥に鈍い圧迫感が生まれた。征士郎が不正を問われた時、自分は何も知らなかったと訴えるだけでは足りない理由が、また一つ増えたことになる。外から見れば、美琴は二十二年間にわたり自らの資産と信用を差し出し、夫の会社を支えてきた人物なのだ。会社の金が不正に動いていたと知れば、なぜ保証を続けたのか、なぜ止めなかったのかと問われるだろう。「私が被害を受けたことと、責任を問われる可能性があることは別なんですね」「ええ。だから、三十八件を一つの塊として扱わない方がいい。いつ、どこで、何のために作られ、あなたがその日に何をしていたかを分けます」久世の言葉を聞き、美琴は自分の手帳と家計簿、資金繰り
非通知の電話が切れてからも、美琴はしばらく携帯電話を机へ戻せなかった。耳元にはもう何も聞こえないのに、「宗一郎さんの手紙を取り戻したければ、九条冬真には黙って会いに来てください」という男の声だけが、妙にはっきり残っている。目の前では久世が通話記録の保存を確認し、冬真は壁際から一歩も動かず美琴を見ていた。隠して会えと言われた以上、この場で黙る理由はなかった。「今の電話、父の手紙を持っていると言いました。冬真には黙って会いに来い、と」冬真の目が僅かに細くなった。「どこへだ」「まだ場所は言われていません」「なら、次にかかってきても出るな」即答だった。美琴は携帯電話を机へ置き、「それはできません」と返した。冬真の口元が硬くなる。以前なら、その顔を見ただけで自分の判断を引っ込めたかもしれない。けれど今、美琴が追っているのは自分の父が残した信託であり、自分の名で結ばれた保証契約である。そこから自分だけが外れることの方が不自然だった。「父の手紙も、信託も、私の名前で作られた契約も、全部私のことです。誰かに代わりに聞いてきてもらうつもりはありません」「単独で会わせる気はない」「私も、一人きりでどこかへ行くつもりはありません。でも、あなたが隣に座れば、相手は話さないでしょう」冬真は答えなかった。久世が二人の間へ入るように資料を閉じ、「では、場所が指定された段階でこちらが条件を組みます」と言った。美琴が交渉の席へ入り、久世と冬真は離れた場所で待機する。通話と位置情報は共有し、何かあればすぐ介入できる状態にする。相手に九条側の警戒を見せすぎず、美琴だけを危険へ晒さないための折衷案だった。次の連絡は一時間後に入った。指定されたのは都心の高級ホテル、その最上階に近いラウンジだった。人目があり、防犯カメラも多い。個室でもなければ、出入口が一つに限られている場所でもない。久世はその選び方を見て、「相手も完全に隠れる気はないようですね」と言った。ホテルへ着くまで、美琴は車内で父の信託関係書類を読み返した。桐生承継信託第一号。四十歳になった美琴へ受益権を移す契約。五年前の保証契約では、その将来受益権を担保予約へ入れたことになっている。さらに崖から落とされた翌日には、健康上の理由で管理権取得を延期し、征士郎を代理人とする申請が出され、その確認者として片桐礼司の署名があった。
ミコト・アセットマネジメントの狭い事務所には、紙の匂いと古い空調の低い唸りだけが残っていた。鍵のかかった書庫から取り出した連帯保証契約書は、久世の前に広げられたまま動かない。美琴はその端へ指を置き、担保欄に印字された〈桐生承継信託第一号〉という名称を何度も目で追った。父・宗一郎が自分へ残した信託の正式名称を知ったばかりなのに、その下には五年前の日付と、保証限度額として十数億円という数字が並んでいる。さらに管理関係者の欄には、九条家と長く対立してきたという片桐礼司の名前があった。「征士郎さんが父の遺産を狙っていたことは、もう分かっています」美琴は契約書から視線を上げずに言った。声を落ち着かせているつもりでも、紙に触れた指先には薄く力が入っている。父の遺産と冬真の事故が同じ紙の上で結びついていることが、まだ現実としてうまく馴染まなかった。「でも、どうして片桐さんがここにいるんですか。冬真の事故にも関わっている疑いがある人なんでしょう」久世はすぐには答えず、契約書を自分の方へ引き寄せた。保証条項、担保設定条項、別紙の信託情報を順に読み直し、途中で眼鏡を外して目頭を押さえる。それから再び眼鏡をかけると、担保欄の一文を指先で示した。「少し違います。信託そのものを担保に差し出した契約ではありません」美琴は眉を寄せた。久世は条文を一行ずつ追いながら、受益権取得時に将来発生する財産的権利を保証債務の担保へ組み入れる予約契約になっていると説明した。宗一郎が信託へ入れた財産を五年前の美琴が直接差し出したのではなく、美琴が四十歳になり受益権を取得した時点で、その権利を担保として押さえられる仕組みだった。「つまり、まだ私のものになっていない時から、将来受け取るものを予約していた?」「そうです。ただし問題があります。契約当時のあなたは、この信託の存在自体を知らなかった」久世の指が署名欄で止まった。そこには、美琴の名を模した署名と実印がある。契約の対象となる権利の内容を本人が認識していないまま、その将来権利だけを担保へ差し出す合意が適切に成立したとは考えにくい。仮に署名が真正だったとしても、何を担保へ差し出すのか説明されたか、本人が理解していたかが争点になると久世は言った。美琴は五年前の自分を思い出した。冬真の死亡報道を見た翌日、何も食べられず、頭が重く、征士郎の用意した
ミコト・アセットマネジメント株式会社の登記簿には、美琴の知らない三年間が整然と並んでいた。設立年月日、資本金、本店所在地、事業目的、代表取締役。どの欄にも不自然な空白はなく、むしろ何も知らない美琴の方が間違っているように見えるほど、会社としての形だけは整っている。久世の事務所で登記記録を一枚ずつ確認しながら、美琴は自分の名前が印刷された代表者欄を何度見ても、そこに自分の人生が存在する感覚を持てなかった。設立は三年前の五月だった。華帆が榊原家へ現れ、美琴が父の残した最後の家族だと信じて屋敷へ迎え入れた、その直後である。事業目的には資産管理、有価証券の取得および保有、医療法人への投融資、債務保証、医療関連事業への出資が並び、本店所在地は榊原医療開発の関連会社がいくつも入居する古い雑居ビルになっていた。美琴はその住所を知っていた。会社の倉庫整理で何度か請求書を送ったことのある建物だったが、自分名義の法人がそこに存在すると聞いたことは一度もない。「株主総会議事録もあります」久世が別の束を机へ置いた。設立時から毎年、定時株主総会が開かれたことになっている。取締役の選任、決算承認、融資枠の設定、関連会社との取引承認。そこにも〈榊原美琴〉の署名があり、実印が押されていた。印鑑証明書まで添付された書類もあり、外から見れば、代表者本人が何年も会社を運営してきたようにしか見えない。美琴は議事録の日付を見て、手元の家計簿を開いた。最初の株主総会の日、美琴は華帆の検査に付き添って大学病院へいた。二年目の決議書の日には、喜和子の法事のため朝から寺にいた。三年目の取締役決議の日には、榊原医療開発の資金繰りが逼迫し、美琴自身が取引先へ支払い延期を頼んでいた。そのすべての時間に、別の場所では美琴が代表取締役として決裁したことになっている。「会社の口座へ、私の旧口座の解約金が入っているんですね」「それだけではありません」久世が画面を回した。銀行から取得できた範囲の取引履歴では、ミコト・アセットへ美琴名義の預金が複数回移され、その金が短期間で榊原医療開発や関連会社へ貸し付けられている。貸付金の一部は返済されず、別の融資へ振り替えられ、損失を表面化させないための穴埋めに使われていた。さらに三つの病院へ資金を供給し、その直後に榊原医療開発が移植関連システムの契約を獲得している。美琴は数字
家庭裁判所の待合室には、紙をめくる音さえ目立つほどの静けさがあった。美琴は膝の上に置いた薄いファイルへ両手を重ね、向かいの壁に掛かった時計を見ないようにしていた。昨日まで何度も久世と確認した資料が入っている。独立した医師の診断書、長年の筆跡を比較した鑑定書、本人の意思を確認せず変更された住所の記録、処方されていない鎮静成分の分析結果、そして二十二年間の資金繰り帳から抜き出した直近三か月の支払予定表だった。隣には久世が座り、そのさらに一席空けたところに冬真がいた。冬真は朝から必要以上に口を開かず、美琴が呼ぶまで部屋へ入らないと約束した夜と同じ距離を保っている。ここへ来る車の中でも、「嫌なら帰るか」と一度だけ尋ねただけだった。美琴は嫌ではないと答えたが、平気だとは言わなかった。怖さと判断力の有無は別だと、今なら自分でも分かっていた。「榊原美琴さん」職員に呼ばれ、美琴は立ち上がった。冬真も反射的に動きかけたが、美琴が小さく首を横へ振ると止まった。久世だけが代理人として隣を歩き、扉の前で美琴は一度だけ深く息を吸った。冷えた空気が肺へ入る感覚を確かめ、それから自分の足で審問室へ入った。征士郎はすでに反対側の席へ座っていた。濃紺のスーツに白いシャツ、姿勢も表情も普段と変わらない。妻の判断能力について深刻な懸念を抱き、やむなく申し立てた夫として見えるよう整えてきたのだろう。美琴と目が合うと、彼は眉をわずかに下げた。心配している時に作る、二十二年間見慣れた顔だった。征士郎側の代理人は、美琴が事故後に急激な行動変化を見せたと主張した。長年暮らした夫のもとを離れ、死亡したと報道されていた九条冬真の生存を十分な確認もなく受け入れ、その一族の保護下へ移ったこと。さらに榊原医療開発へ資産保全を申し立て、自ら投資会社を設立して夫の会社を攻撃しようとしていることを挙げた。精神的衝撃による判断力低下、第三者からの影響、財産管理能力への疑義があるという説明は、声を荒らげることなく整然と続いた。美琴は途中で口を挟まなかった。征士郎の代理人が「本人は現在、九条家の強い影響下にあります」と述べた時だけ、手元の紙へ視線を落とした。かつてなら、その言葉を聞くだけで冬真に迷惑をかけているのではないかと不安になったかもしれない。けれど今は、誰の利害がどこにあるかを考えること自体が、判断を手放さないた
久世の事務所へ届いた裁判所提出用の書類は、厚さだけなら昨日まで積み上げてきた契約書と大差なかった。けれど、その一枚一枚が動かすのは過去ではなく、今日から先の金だった。美琴は応接室の長机へ広げられた申立書を前に座り、口座番号、会社名、不動産、保有株式の一覧を順番に確かめていた。榊原家名義の資産だけではなく、征士郎が実質的に支配する関連会社まで対象に含まれている。申立ての理由は明確だった。美琴名義の口座が本人不在のまま解約され、実印と印鑑証明書が長期間にわたって本人の意思を確認せず使われ、偽造の疑いがある委任状や保証契約が複数存在する。さらに医療記録の改ざんや社員IDの不正利用まで確認されている以上、今後も資産を別会社へ移し替えられる危険があると久世は説明した。財産の行方を確定させるまで、一定範囲の処分を止める必要がある。「ただし、向こうも同じことをしてきました」久世が別の書類を美琴の前へ置いた。征士郎側は、美琴が九条家の影響下にあり、夫婦共有財産を外部へ流出させる危険があるとして、美琴が新たに開設した口座と投資会社の活動停止を求めている。申立書には、九条家が巨大な資金力を背景に榊原医療開発を不当に追い詰めようとしているという主張まで添えられていた。美琴は数日前、自分の名前でようやく作った口座を思い出した。残高一円から始めた口座だった。金額に意味があったのではない。誰にも許可を取らず、自分の判断で開いたという事実に意味があった。その口座さえ止められる可能性があると聞いても、不思議と以前のような焦りは湧かなかった。「止められる可能性は高いですか」「双方とも一部は認められるでしょう。特に今は、どちらの資産が誰の意思で動かされたものか争いがあります。裁判所としても、決着がつくまで大きな移動は避けたいはずです」「父の信託も?」「管理権の帰属が争われれば、そこへ近づく手続きも遅れます」その答えに、美琴は初めて小さく息を止めた。四十歳になった自分へ父が残したものが、ようやく見え始めたところだった。それがまた凍結されれば、征士郎の会社を追うために使える資金も、父が何を守ろうとしていたのかを確かめる道も遠のく。窓際に立っていた冬真が、資料から視線を上げた。「なら、止まる前に別の手を打つ」と言う。久世が眉を上げ、美琴も彼へ顔を向けた。冬真は机へ近づき、榊原医療開発の